コスタリカの歴史と過去の戦績

前書き


 
僕が言うのもなんですが、FCコスタリカにはふるーい歴史があります。どのようにして”コスタリカ”が始まったのか?、その戦跡は栄光なのか、屈辱なのか、そもそもこのチーム名である”コスタリカ”の由来は何なのか?
 その多くの謎をついに解き明かす時がやってきました。では、FCコスタリカの生き字引である、久保田&関口両氏による「コスタリカの真相」を特とご覧あれ。

 尚、生き字引ご両人のご都合により、”Team Profiles”がいつ完結するかは、とんと見当がつきませんので、あしからず。

ちなみにコスタリカ国はこちらですが、関係ありましぇん。
誕生

 
1973年3月、東武東上線上板橋駅より徒歩15分にある都立大山高校八期生のサッカー部OBと、当時コスタリカの中心的メンバーの一人であった「後藤祐二」の弟雅俊(故人)の母校悪名高き都立練馬工業高校サッカー部のOBが融合し1974年1月に大山高校のグラウンドで初練習を行う事により、社会人チームとしての産声を上げる。

タイで作ったコスタリカ国をイメージしたユニフォームにて
(1990/8 vs花園FC 豊田市遠征)
名前の由来

 当時OBとして母校のグラウンドを使用する事が出来ず、必然的に他に場所を求める。板橋区・練馬区近辺で全員が参集し易い場所として当時の練馬グランドハイツ(米軍キャンプ地跡)現在の練馬光が丘団地が建設される前の空き地が適切であると判断し、定期的に練習する場所に選定する。

 当時練馬グラウンドハイツは他にも数多くのチームが練習場所としており、他のチームといきなりの果し合いを行う事も可能であり血気溢れる若いチームが練習を行うのに格好の場所であった。その練馬グラウンドハイツの最寄の駅は東上線下赤塚であり、そこから歩いて行くことになる。グラウンドまではかなりの時間が必要であったことと当時全員が車を所持していた訳ではないため、駅に一時集合しそこから2〜3台の車に分乗してグランドまで赴いていた。その際の集合場所が下赤塚駅の裏にある「喫茶 コスタリカ」であり私(久保田)がチームにチーム名として提案、関口氏が提案した大山高校八期生だからFCエイトの案を「八期生以外からは親しみが得られない」の意見をぶつけて一蹴・・見事に名づけ親になる。

 当時はコスタリカ・・が国の名前であること程度は認知していたものの、他には中南米とはどこか?くらいの知識しかなく後にコスタリカが始めてW杯に出場して来たとき国の場所、国旗、ナショナルカラー等を確認することが出来たというのが真実である。

 後述する北区リーグに初登録する際、「チーム名の由来」と言う欄があり「中南米のサッカー強国」と記述した事を覚えている。後日判明したが少なくともサッカー強国ではなかった・・・。

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