コスタリカの歴史と過去の戦績part2

コスタリカ初戦


 1974年秋、戸田市惣右衛門公園にて相手は久保田の大学の友人のチーム(川口市リーグ所属・武南高校のキャプテン西山氏=後にコスタリカに参加、が率いる同リーグでの中堅チーム)当時といいますか、結果的にこの試合限定で着用したユニフォームは前記後藤(兄)が早稲田のサッカー部に所属していた関係で”エンジ”にこだわりがあり、エンジのユニフォームを希望、結果的に調達が間に合わず久保田が通学していた大学の体育のユニ(当時の1年用)がエンジであることに注目、当時シリンダー錠及び3〜4桁の番号を合わせるタイプの錠前であれば1分以内で開錠する事に長けていた久保田が前出の友人に見張りを依頼することにより15着ほど入手、背番号を白のマジックで書き込みコスタリカデビュー戦のユニフォームとする。

 残念ながら第二戦からは今度はヤンマーファンの関口氏の鶴の一声でアディダスの三本ラインの赤のユニフォームになったため初戦で使用されたユニフォームはその後二度と着られる事が無かった。

初戦のメンバーは以下のとおり

久保田・関口・後藤兄・後藤弟・田辺・重田・吉田・横川(後は記録・記憶が不明)
結果は4−0で快勝
得点者 後藤FW・関口HB・田辺HB・久保田FB

尚、今回過去の歴史を振り返るためコスタリカ初代代表の関口氏が初戦から10年間以上丹念に記録していたスコアブックを参照させて頂きたく貸し出しを希望いたしましたが残念ながら関口氏の自宅のどこかに埋もれたまま発見されず、結果的に関口氏と額をくっつけ合い過去の記憶をたどりたどり再度年月日等を思い出さざるを得なかった事は非常に残念である。

初代代表関口氏
85〜98まで開催されていた忘年会でのひとコマ。
女性をみると必ずツーショットを撮らないと、気が
すまなかった。
当時の戦法

 後藤(兄)(元早稲田サッカー部100mを10秒台で走りきる超俊足プレーヤー)をめがけて前線のスペースにひたすらロングキック・・後藤が拾って中に持ち込みそのままシュート、もしくはクロス、そこに関口、田辺が絡んで得点・・が普通のパターンであった。

 また、(あくまで当時は)チームで2〜3番手の足の持ち主であった久保田が最後尾(当時は左のサイドバック)から果敢に(単に目立ちたいから!)オーバーラップ、当時から山本五輪監督の「追い越せ!追い越せ!」をその時点で実践、デビュー戦以後も点に絡み、後述する北区サッカーリーグに参戦後、チーム内で後藤に次ぐ得点を挙げていたのは記憶に新しいものであった。

 一部からは前線に上がったきりFWの前に張り付いていて、二度と戻ってこない・・の批判も多かったのも事実である。(当時はコスタリカのトゥーリオとは勿論呼ばれていなかったが・・)得点毎にFB菅間氏の苦虫を噛み潰したような皮肉のハイタッチが懐かしい思い出である。

設立当時の主なメンバー
 
関口 抜群のテクニックで相手を翻弄・・しかしながら超鈍足で同じ相手を2度3度抜く自称華麗なるテクニシャン
後藤 一浪入学のため早稲田であの西野と同期、超俊足の女好き、東伏見の合宿所から彼女に会いたさのあまりトンズラ・・サッカー界のためにも惜しい人材であった。
重田 聖職者・学校教師の息子とは思えない泥臭いプレーヤー
細谷 和製ウーベ・ゼーラ/頭が・・ 大山高校からは珍しく六大学に進み、それゆえいじめられていた可愛そうな存在
江口 ボールに対しても女性に対してもテクニシャン、コスタリカには若干遅れて参加
田辺 和製 キム・ジンクック 短足のストライカー、股を抜かれたことがないのが自慢
後藤弟・横川・吉田 各々練馬鑑別所いや工業高校のOBでいずれも自動車関係の会社勤務、全員腰は低くないが車高が低い車に乗っており、試合のたびにチャラララ・チャラララ・・と変わった音色のホーンで登場を告げ、相手に存在と恐怖を植えつけていた希有なメンバーであった。
ちなみに私(=久保田)はおとなしくアメパトホーンを使用していました。

 

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